声優・日笠陽子がソロシンガーデビューを果たす。満を持してのデビュー、と言っていいだろう。この数年、ひっきりなしにヒロイン級の配役が続き、毎クール複数本のアニメーション作品に出演し、多くのキャラクターを演じ続けてきた人気声優っぷりを考えるに、いよいよ機は熟したという印象がある。まずはいちファンとして、心から快哉を叫びたいと思う。
 さて、ではそんな日笠陽子のデビューシングルは一体どんな楽曲なのだろうか――誰もが期待を込めてそう思っただろう。そして同時に誰もが、秋山澪として歌った『けいおん!』シリーズのエンディング楽曲のようなストレートなビートが先導する楽曲を予想したのではないだろうか。無理もないことだ。『けいおん!』で日笠が見せてくれたパフォーマンスは早々に忘れることができないほどに魅力的だったし、事実、“Listen!”“NO, Thank You!”といった楽曲以上に彼女のひたむきさ、精一杯の誠意が引き出されるものはないはずだったからである。そう、そんなものはないはずだった――。しかし、ついに到着したデビューシングル、その名も『美しき残酷な世界』ときたらどうだろう。荘厳で、構築的でゴシックの風合い漂うダークな世界観を描いた重厚なロックナンバーなのである。あまりに新鮮、そして度肝を抜かれるようなチャレンジ。そしてもちろん、この新しい日笠陽子は、まるっきり悪くない。むしろ、あの実直な歌声と聴き手の背筋を正させるような凛とした清澄感はより一層存在感を増しており、また同時に、楽曲に宿る切迫感やリリシズムといったこれまでも日笠の歌では前面に押し出されることのなかった魅力もあふれ出している。声優としてデビューして以来、数多くのキャラクターソングを歌ってきた日笠だが、「ソロ」としての起点に向き合うことで新たな覚悟が生まれたのだろう。日笠は語る。
「自分の名前でCDを出すっていうのはすごい恐怖だったんです。だって、自分を見せないといけないから。変なところチキンなんです、わたし(笑)。それに声優っていうことを逃げ道にしちゃうんじゃないかって。でも、こうやって腹を決めて、自分の心に素直になってみたら、やっぱり歌を歌いたいと思って。そこで『やりたい』って言えたことで乗り越えられたものがあったんじゃないかなあ。『やらないで後悔するならやって後悔したい』って。今でも悩んでしまうことはありますけど、でもやってよかったってやっぱり思うから。かつて悩んでいたのもどうでもよくなってしまうくらい、今は作る喜びを感じてます」
 日笠のファンを長年続けてきた方ならよくわかるだろう。日笠陽子という人は本当に真面目で誠実で、何より一生懸命な人である。演じるのなら、誰より深くキャラクターを理解してあげたい。歌うならその曲を誰より理解し、心の底から歌ってあげたい。そして、もちろん聴いてくれるリスナーのために、少しでも何か残る、そんなパワーを持った音楽を届けたい。心根の部分でそう考える人である。だからこそ、日笠は「チーム」にこだわりたかったと言う。ともに戦い、まっすぐに音楽に向き合う同志として。
「プロデューサーさんと最初に話したときには、もごもご言って遠まわしに断ったんです(笑)。でも、諦めずに何度も話に来てくれたんですよね。それがすごく大きくて。やるのならやっぱり、これぐらい熱量のある人たちと一緒にやらないといけないんじゃないかって思ったんです。だけど、わたしももちろん、最初からみんながみんなうまく出来るわけじゃないんですよね。たとえ失敗しちゃっても、いいものを作ったんだから、もう一回やろうって言い合えるチーム作りがしたいんです。今は、このチームを世間に見せたい(笑)。曲ってこういう過程でできていくんだっていうことも知ったし、こういう曲がいいんですって発注して、楽器を弾いてくれる人もいて、そこにも立ち合わせてもらって。1曲作るのにどれだけの人がどれだけの時間を費やしているのか。それを知れたことは本当に大きいですね。こういう人が何人いてくれたんだっていうことはちゃんと感じたいんです。そういうのをひっくるめて曲になっているんですよね」
  そんな日笠が「チーム」の仲間たちとともに放つ記念すべきデビューシングルの表題曲に選んだのが“美しき残酷な世界”である。前述したとおり、重厚なサウンドスケープをもった、ボトムの効いたロックである本楽曲。このセレクトにも当然、日笠は日笠らしいまっすぐな理由を持っているし、なによりこの楽曲との出会いと成り立ちに運命的な「つながり」を感じざるを得ないのだと言う。
「やっぱりいろんな歌を歌わせてもらってきて、ソロではこういう曲がやりたいっていうイメージは明確にあって。バンドサウンドがやりたいっていうのはあったんですよね。歌もそうですけど、楽器の音って絶対同じにはならないわけですよね。人間はそういうものなんだっていうところを出したいと思って。それに、この曲は『進撃の巨人』のエンディングになっているんです。であれば、この曲は日笠陽子の楽曲である以上に作品のためにあるべきだと思うんです。作品に寄り添うことをわたしの個性にできないかなと思って。こういうものを作りたいっていう意志をもった人間ってなんとなく集まっていくような気がしてますし。だから、監督の納得できるもの、それが自分が歌いたかったものなんだって。難しいんですけどね(笑)」
 だからなのだろうか、これまで2日にわたってレコーディングをしたこともあるという日笠だが、今回の歌入れはなんと3時間で終わってしまったそうだ。
「3時間で取り終えてしまうという謎(笑)。なんでかって? 作品の世界観が決まっているからですよね。歌うことって、ストーリーを描くとか物語を語るという感覚に近くて。素の日笠陽子がストーリーを語る、というか。キャラクターとして歌うのって答えが決まっている気がするんです。でも、ソロで歌うとなるとやっぱり自由度が高いから。それに、心が乗っかったときのことってあんまり覚えてないんです。歌いきれたなっていうことに関しては、ああ歌えたなって思うだけなんです。何も残したくないんです」
 そんな言葉を受けて“美しき残酷な世界”を聴くと、冒頭でぼくが書いた「実直な歌声と凛とした清澄感はより一層存在感を増しており、切迫感やリリシズムといった魅力もまたあふれ出している」ことにリアリティを感じてもらえるのではないだろうか。確かに“美しき残酷な世界”は、これまでキャリアを精一杯突っ走ってきた日笠の、いわゆるハイテンションでその名のとおり、誰より陽性なキャラクターからは飛距離のある楽曲である。だが、その実、その根底にはあらん限りの誠意と愚直なまでの思いでもってひとつひとつのチャレンジに向き合う、「これぞ日笠陽子」というスタンスがある。
 そして、その一方で「さすがは日笠」と叫び出したい衝動があふれだす楽曲、それがカップリングナンバー”starting line”だ。この疾走するストレートな曲について話が及ぶと日笠はまた嬉しそうに語りだす。
「稲葉エミさんが書いてくれた歌詞が本当に素晴らしくて。わたしが言いたかったことが、言わなくても伝わっちゃうという。まっすぐなんですよね。つまずいても転んでももう一回立ち上がって進んでいきたいっていうニュアンスがあるんですね。わたしもつまずいたし、立ち止まったし。一度は立ち止まってしまったことを乗り越えて進んでいかないといけないと思ってるんです」
 新たな魅力と明確なチャレンジ意識を持って、その表現欲をぐっと広げてみせた“美しき残酷な世界”と、力の限りを振り絞りよく澄んだ高音を響かせる“starting line”。誤解を恐れずに言いきってしまうならば、この2曲は、シンガー=日笠陽子のすべてである。なぜなら、前者には、日笠のまっすぐな「心」が詰まっているからだ。そして、後者には、日笠が全身全霊のパワーで向き合う「身体性」が詰まっているからだ。そう、このデビューシングルは、心と体、つまり自分が持ちえるものすべてで音楽に挑む日笠陽子というシンガーから届いた等身大の現状報告のような作品なのである。これほど精一杯なシンガーの等身大に触れて、心が動かない人はいないだろう。
 しかし、彼女は、デビューから間髪入れず、6月8日発売されるセカンドシングル『終わらない詩』でさらなる表情を見せてくれている。切なくどこか懐かしいような余韻が印象的なバラードを、その柔らかな、だけどしっかりと前を向いた歌声で見事に歌い上げているのだ。映画『ハル』の主題歌に抜擢されたこの楽曲は、日笠にとってやはりもうひとつの大きなチャレンジだったに違いない。
「この曲はすごく大切な曲になるだろうなっていうのは歌う前から思ってました。仮ではめていた歌詞があったんですけど、それがすごく好きで。でも、やっぱり映画の主題歌だし、ちょっと変えようっていう話になって。それで歌ったんです。だけど、監督は『前のほうがいいねえ』って。それで歌い直したんですね。『ハル』の世界観だけじゃなくて、いろんな人の世界観に寄り添える歌であってほしいっていう。いろいろ試したんですけど、最終的には力強く、生命力を感じさせるような方向でOKをもらいました。“美しき残酷な世界”は作品の世界を想像しながら歌ったんですけど、この曲に関しては、自分の経験を思い出しながら歌いました」
 さて、こうしてシンガーとして新たな一歩を踏み出した日笠陽子。インタビューの最後に「このシンガーデビューは日笠陽子にとって、どんな意味をもった経験として残っていくと思うか」と聞いた。すると、日笠はしばらく黙り込んだあと、思いを決したような晴れ晴れとした表情でこう話してくれた。
「何も残らなくてもいいのかなって。何かが残ると……止まっちゃいそうで。初めてのプロジェクトの曲たちだから、全部めっちゃ気合いが入っているし、心もこもっているし、最高だって思ってるけど、そこで満足してしまったら終わってしまうから。みんなのなかには残ってほしいです。でも、わたしのなかには残らないでいいと思ってます。だって、自分のために残すために作ってないから! 歌い終わってCDになった時点でもうみんなものだから!(笑)」
 こんなにもまっすぐな思いをからっとした表情で叫ぶ日笠陽子を見ていると、このまま本当にどこまでもいってくれそうな思いがして仕方ない。